特集

人生で最後にやり残したことを考えたら、ニュージーランドに来ることになった

2017年に本格的に単身で移住をして、南島の北端辺りにあるモトゥエカという小さな町に住み着いて3年めの りうか です。

ついこの間、mākoha(まーこは)というニュージーランドの車旅を応援するサービスを始めました。
小型車での旅客輸送資格と、普通車でのインストラクター資格を取得して、自分で運転したい方たちや、運転苦手だけど車旅をしたい!という方たちのお手伝いをする…予定です。

とはいっても正式に開始したのがついこの間なので、covid-19の影響でまだまだ厳しい状況ですが。

そんな私が #なぜ私はニュージーランドへ の話をすることになって。
どこまで話してよいのか、そしてどう話せばよいのか、ちょっと考えています。

りうか
りうか
先にお断りしておきますと、タイトルを読んで想像がつく通り、少し…かなり暗い話が出てきます。しかも長い。
得意でない方は読まない方が良いかもしれません。

ただ、つい最近もニュージーランドに来るキッカケを話すタイミングがあり、さらにはこの特集。きっと今は振り返りの時期なのだな~と思って、今回は 一番初めの話 を重点的にお話ししようと思います。

この記事は「なぜ私はニュージーランドへ」ウィークの一本です。

あの頃の私

どん底にいることにも気付かなかった日々

2002年。私は鬱病とパニック障害のど真ん中でした。
その頃の記憶が定かではありませんが、多分既にその時点で4-5年患っていました。

元の理由は別でしたが、追い打ちをかけるように、2001年に日本中を旅しているとき母が倒れ、容体の急変などもあって3ヶ月の闘病であっけなく逝ってしまいました。

一人っ子だったので、母の病が長期に渡ると聞いて看病を前提にシフト制で融通が利きそうな契約社員の仕事を見つけ、研修が終わって次週から本格的にシフトに入る…という時に母が亡くなり、その仕事をする意味も分からなくなり…。

ただ、せっかく研修をやってもらったのだし、1年くらいは働かないと…という古い考えで仕事を続けていました。

その頃はまだ、インターネットで医療情報などが手に入りづらい時代。
あまり合わない医者からもらう薬を飲み続けながら、病気と薬の影響で頭はずっとボーっとしていました。

希死念慮と呼ばれる死にたい気持ちは薄れていましたが、正直言うと死ぬパワーもないだけでした。ただただ 死なないことで生きている ような状態だったのです。

覚えているのが、毎日ネットサーフィン(という名の無為な時間)を過ごしながら始発の音で朝に気付いて寝入る日々だったことと、「息するのが面倒くさいな。このまま止めたらしないで済むかな…」と考えていたことくらいでした。

りうか
りうか
…本気で暗い話になりましたね。付いてこられてますか?
気分が引きずられそうな方は離脱して大丈夫ですからね。

人生でやり残したことは何だろう

思い返すと、何故その時だったのか分かりません。
働き始めて7-8ヶ月くらい経った頃でした。

そろそろ正社員としての就職口を探して ちゃんとしないと駄目なのかな と思いました。

母の件がある前は、会社を辞めた後「しばらく自分の好きなことをしよう!」と働かずにいたのですが、私たちの世代では正社員として働くのが 普通 で、すでに十分レールを外れている自覚はありました。

もともと周りから ちょっと普通じゃない とか、 普通にすれば と言われて 普通コンプレックス だったことに加え、鬱病なんて 普通じゃないこと になっていたので、いつかは普通にならないと!というプレッシャーを感じていたのだと思います。

「次に仕事を決めたら、毎日会社に行って帰ってそのまま私の人生は終わるのだろうな…」とも考えました。
そして考えたのが、表題にもあるように 人生でやり残したことは何だろう だったのです。

働かなかった間、時間を費やしたのは主に3つでした。
乗馬(安いクラブを見付けて通っていました)と、(大好きだったバンドが野外ツアーをやるのに合わせて、沖縄以外すべて自分の車で回っていました)と、英語

ただし英語は、当時始まったばかりの教育給付金が、最大で授業料の80%、30万円戻ってくるという理由でなるべく自費ではやりづらいことをやろう…というふわっとした理由で始めたものでしたが。

やり残したことを考える時も自然とこの3つに考えが及び、辿り着いたのが 海外で英語をきちんと学んでみたい だったのです。

7月という季節

当時働いていたのは教習所の営業。7月は夏休みの始まりで第二繁忙期でした。

それでも何とか2週間の休みをもらえることになり、通っていた英会話スクールの留学センターに相談に行くと、私の希望と期間をあわせて二つの候補校を出してくれました。

・イギリスで午前中は英語、午後は乗馬のレッスンを受けるコース
・ニュージーランドの海の近くの学校でみっちり勉強するコース

乗馬と英語の組み合わせなんて最高過ぎる!と私の心は完全にイギリスに傾いていました。

ところが。

フライトチケットを予約する段階になって、イギリス行きは全て満席。キャンセル待ちしかないと言われたのです。

出発までにあまり時間もなく満席も当然なのですが、キャンセルが出なかった時は休暇自体が流れかねません。
しかも7月はイギリスのベストシーズンで航空券もかなり高かったのです。

一方、ニュージーランドなら今すぐフライトを押さえることも出来るし、冬で経由便なこともあって金額は約半額。明日にはニュージーランドもどうなるか分かりません…というあからさまな営業トークに私の心は揺らいでいました。

その時思い出したのは、母や親戚、友人たちの声。
私の周り何人かがニュージーランドに行ったことがあったのですが、全員が全員べた褒めだったのです。特に母はとても気に入っていて、小さな家には大きすぎる羊の敷物を買って来ていたり、タイエリ峡谷鉄道の写真を飾っていたりしていました。

2週間しかないし勉強に集中しろってことだろう。
本当にそんないい国なのかどうか、いっちょ確かめにいってやるか。

そんな気持ちでニュージーランドに行くことを決めました。

2週間の衝撃

クライストチャーチの語学学校に通った2週間は全てが衝撃的でした。

到着当日に連れて行ってもらった初モール(The Palms)とスーパーのカートの大きさ。

初日にホストマザーが洗い物の泡をゆすがず、たどたどしい英語で「これは洗わなくていいの?」と聞いたら満面の笑顔で「It’s edible!」と答えられて、人生で忘れられない単語になったこと。

バス通学のため朝家を出る時も真っ暗で、放課後も友達の家に行ったらすでに暗いような真冬でしたが、なぜか2週間ずっと楽しくてたまりませんでした。

ホストファミリーは20代前半のキウイとマオリのカップルで、すでに3歳と1歳の子どもがいました。
(唯一持っているブレッブレの集合写真…縁が途切れてしまいましたが、今なら彼らは21歳と19歳!)

夜の定番は暖かい飲み物を飲みながらのおしゃべり。

ホストマザーは敬虔なクリスチャンでもあり、ある晩、ここに来た経緯の話になった時に涙が止まらなくなった私をギュッとハグしてくれたのを覚えています。

「あなたは学校卒業したらすぐに帰っちゃうから、週末が1回しかないのね」と言われたのも衝撃的でした。

そうか…2週間って短いんだ…確かに全然足りないな…そう思いながら帰途につきました。

電撃ワーキングホリデービザ

大学時代の友人から ワーキングホリデー という言葉は聞いていました。

調べると、まだ私も間に合う!と分かり、帰国して三日後くらいには当時ビザ申請を受け付けていた大使館の扉をくぐっていた記憶があります。

その時も私の中では これが人生最後の決断になるだろう という言葉がずっと回っていました。

ビザは順調におりたものの、仕事も辞めていない、アパートも借りっぱなし…ということで準備に時間がかかり、9月に一度渡航してビザを有効にしたあと日本に戻り、結局12月17日にニュージーランドに戻りました。

りうか
りうか
何故こんなにはっきり覚えているかというと、到着した翌日にThe Load of the RingsのTwo Towersが公開になったからです。

大きな二つの出会い

ワーキングホリデーでも、3ヶ月間は大好きになった語学学校に舞い戻りました。
そこで私のことを大きく揺さぶる出会いが二つあったのです。

たかひろ

同じ日に入学した仲間として出会った彼。
大学生で3ヶ月だけ学校を休み、初海外でニュージーランドに来た彼はとても素直に感動を表に出せる人でした。

カセドラルを見ては「すげー!町中に教会!デカい!すぐ横の石畳を車が走ってる!!」と叫び、エイボン川のふもとでは「うおー!こんな町のど真ん中にこんな綺麗な川が!なんだこれ!!」と興奮し、シャイすぎて人の顔を見られないクセに毎日私たちを誘っては出かけていました。

私はそんな彼を見て「あぁ…まだ、こんな風に世界に感動していいんだな…」と、彼自身に感動したのを覚えています。

結局彼の旅立ちまでずっとつるむことになりましたが、彼の心のやわらかさのおかげで、自分の心も少しずつやらわらかくなっていったのを覚えています。

マリア

二度目の学校で、午後のクラスは自分で希望を出して、最初の時と同じマリア先生のクラスに入れてもらいました。

マリアは厳しいことで有名で、特に若い生徒には人気がありませんでした。でも私は厳しいからこそマリアの授業が大好きだったのです。

そこである日、語学学校あるあるの「なぜあなたはニュージーランドに来たの?」という質問をされました。
まさに今回のテーマですね。

その時、とっさに私は「マリアには嘘を付きたくない」と思いました。
適当なことを言ってごまかしたくない、でも、私のここまでのことをつたない英語で何と説明したらよいのか…。

一瞬で頭の中をいろいろなものが駆け巡って、私の口を突いて出たのは

I almost gave up my life.

でした。多分、周りの生徒たちは理解していなかったか引いていたと思います。
でも、マリアは驚きもせず、ただニコッと笑ってこう言ったのです。

Never too late.

その言葉は、今までのどんな言葉よりもまっすぐ私の心に入ってきました。次の瞬間、私は授業中にもかかわらず号泣し、多分周りの生徒はさらに引いていたと思います。

マリア自身、元々看護師でニュージーランドからヨーロッパに渡り、スイスで救急車帯同看護師のキャリアを積んだ後、現地で旦那さまと出会い結婚。
二人でニュージーランドに戻ってから英語教師の資格を取って、この学校で教えているという、まさにNever too lateを体現している女性でした。

他にも多くの出会いがありましたが、中でもこの二人が私の人生を大きく変えました。ワーキングホリデー中、薬はずっと飲み続けていたのですが、明らかに気持ちが落ち着いたのを感じ、日本に戻ってからすぐ断薬も出来て寛解に至りました。

帰国、そしてその後

りうか
りうか
…え?帰国したのか、ですか。はい、母の三回忌で帰国は変えられず、実はそこから14年間、日本にいました。

本来は実際にニュージーランドに移住するまでのことも書いた方が良いと思うのですが、ここからさらに書くと1万文字を越えるのは確実です。

ということでザックリいうと…。

帰国後、非正規&フリーランスから正社員と渡り歩くも、パワハラなどで寛解していた鬱が再発。正社員で3社変わる間にさらなるパワハラや東日本大震災(会社の支社が東北にありました)でボロボロになり退職。1年まったく動けない時期に追いつめられていき、日本から出ないと私の人生は終わる、しかし何をすればよいやら…という時、ものすごい偶然と衝動でニュージーランドの会社に就職…するも諸々の事情で渡航せず日本で働く。3年経って本当に人生最後のチャンス…と動いてとうとう移住。そこからまた紆余曲折あって渡航11ヶ月で居住権。会社を退職して自営の準備をしている時に永住権になり今に至る…と、こんな感じです。

…この辺りの話は、またいつか機会があれば。

私の心の中にいつも

2017年に移住する直前まで、私の心はいつも不安定でした。

もっと言えば、それまでの人生ずっと、自我が強いわりに後ろ向きで自己肯定感が低く、「人生で唯一自信があることは、自分に自信がないことです」と言うほどでした。

ただ、こちらに腰を据えて暮らすようになり、みるみるうちに自分が落ち着いていくのが分かりました。

人に笑うと笑い返してくれる。親切にすればありがとうと言ってもらえる。
おこがましい言い方ですが、自分のなりたいいい人 であることに躊躇いを感じなくて済むようになったのです。

新しい友人が出来たり、Waka Ama(ワカ・アマ:アウトリガーカヌー)を始めたことも大きかったです。

後ろ向きな自分は常に顔を出しますが、そんな時いつもマリアのNever too lateとたかひろの素直さが助けてくれています。

周りの生き方を見て Age is just a number. という言葉も自分のノートに追加しました。
目線を気にしなくていいので、トラウマだったスカートも楽しんで履くようになりました。
私が好きな人たちには、いつでも好きと伝えないと、と思うようになりました。
やりたいことのリストがどんどん伸びていくようになりました。

もちろん、不安定で泣く日も、嫌なことが続くこともまだたくさんありますが、あの時死なないでよかったな、ここで暮らせてよかったな、と思えるまでにはなりました。

こんな人間でもニュージーランドに来られました…というひとつの事例として、私の話をお届けしました。

もし今、つらいことばかりのあなたが居たとしたら。
私はただギュッとハグすることしかできないかもしれません。

でも、きっと Never too late です。今はそう思えなくても、いつかきっと。

皆さんの物語もお寄せください

Jandals Lifeでは、あなたがニュージーランドに来たきっかけを募集しています!

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お寄せいただいた内容は、後日まとめ記事に掲載させていただく場合があります。

ABOUT ME
りうか
南島、ネルソンの隣のタスマン地方に住んでいます。2002年にニュージーランドに出会い紆余曲折の末、2017年に移住。永住権保持。元留学エージェント。ニュージーランド公認の運転教習と旅客輸送の資格を保持し、車旅サービスのmākohaというサービスを始めました。 料理が好きで、好きなものを好きな時に食べるためにいろいろ自分で仕込めるようになってきました。