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高校辞めてニュージーランドに来た話

この記事は「なぜ私はニュージーランドへ」ウィークの一本です。

ラッキーラスト!のPINのけんですー。

「なぜ私はニュージーランドへ」ウィーク、ツイッターでも #なぜ私はニュージーランドへ を使ってたくさんの人がその人だけのストーリーを共有してくれたね!

こうやってきっかけをシェアすることで、同じ様な状況にいる人が新しい選択肢に気づいてくれるといいなと思ってます。

昔よりも多くの情報が手に入るようになった今、誰かの何気ない言葉が別の誰かの人生を変えることもあるかもしれないよね!

ということで、ニュージーランドに来たきっかけです。せっかくだから当時ちょこちょこ聴いていた音楽も紹介しながら書こうかなー♪

自分は数回渡航の機会があったんだけど、1回目は高校を中退した後なのでそこから始めようかな。

17歳の1年だけの予定だった最初の留学

その昔、真面目だった自分は(現在進行形で真面目だけど)神奈川県のどこかで名前を聞いたことがあるかもしれないような高校に通っていました。みんな仲良しで、職員会議で知らない先生方から進学の心配をされる程、稀にみる元気いっぱいな学年でした。

高校時代は、部活に入らず地元の社会人クラブチームで必死に楽しくバスケをし、中学1年くらいから聴いていたHipHopやR&Bを貪る様に聴き、映画を観て、漫画を読んで本を読んでいました。毎日毎日悔いがないように全力で遊び、授業中にしっかり体力を回復し、また必死に遊ぶ日々です。

高校2年生の前半頃には周りの雰囲気に合わせ、将来のことを悩む種もないのに悩んでみたり。その無限にも思える楽しい日々を過ごしていても逃れられなかったのが「受験」です。あれだけ遊んでいた周りも通い始めた「予備校」という所にも流行に乗って通い始めたりもしました。

当時は50Centが頭角を現してきたり、EminemのLose yourselfがあったり、こういう人達の挑戦的な姿勢(attitudeね)とリリックに、頭の中は「挑戦」の二字でいっぱい。でも、当時の自分にとって受験は挑戦ではなかった。勉強はできなかったけど。

その時目に飛び込んできたのが「留学」という選択肢。

頭に浮かんだ場所はもちろんアメリカだったのだけど、留学生が事件に巻き込まれたといったニュースも良く流れていました。選択肢を広げアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド。当時のニュージーランドドルは他のどの国と比べても安い1ドル50円から50円台後半。少し問題もあるけど私服で通える高校も見つけました。

優しい担任と厳しい校長に「1年間留学するから単位を認めて卒業させて!」と直談判し了承をもらい行く気は満々。

洋楽と映画が好きだし、英語には抵抗はない!

勉強はわからないけど、一応予備校にも通ったし気分的に大丈夫!

差別があるのも知ってる!

心配なのはカッコいいスニーカー屋さんと何でもそろってるCD屋、後はお洒落なヘアサロンだけ!

と意気揚々と準備を進めていたのも束の間、「やっぱり留年になる」と校長が言い出しました。

土壇場で話を変えた「大人の事情」に少し頭に来たけど、そんなことそれ程大きな問題でもない

それなら高校辞めちゃえば良いだけじゃん!

その後無事(?)退学し、晴れてニュージーランドの地を踏めることに。

留学1年目は毎週末キウイ達のパーティーへ行ってワイワイ遊び、2年目には日本人とも仲良くしたい!という気持ちで留学生達とワイワイ遊ぶ日々を過ごしました。

賢い学校ではなかったので、差別も根強かったしゴミを投げつけられる留学生とかも日常茶飯事。でも毎日が挑戦と刺激に溢れていました。

でも順風満帆に進まないのが人生です。

最終テスト(NCEA)もボロボロになりながら終わらせやっと出た結果には……「受験した記録がないし残っている成績がほとんどない」。

学校の回答は「NZQAが無くしたみたい」と役に立たないし、エージェントは「しょうがないよね」の一言のみ。

結局少しの英語力(偏った会話力)と楽しかった思い出だけを持って日本へ帰国となりました。

これが特にドラマもなく始まりフェイドアウトするように終わった最初のニュージーランドへの渡航です。

20歳の時の2回目の渡航

帰国後はバイトをしたり、バスケをしたり、糖尿病だった犬にインスリンを打ったりとフラフラ過ごしていました。

半年位経った後、やっぱり大学受験をしようかな!?と思い立ちました。

早速春期講習に通い始め受験勉強を始めたのに、またしても違和感が。

問題の解き方はわかった(気がした)、偏差値もなんとなくわかった。自分の志望校の合格判定みたいなのもぼんやりとわかった(可能性ゼロみたいな感じ)。

でも何かが足りない

意味を調べなくても読める教科書、スラスラ耳に入ってくる先生の説明。

1回目の留学の時から聴き続けていた2PacのLife goes onの1節。

Until I get free I live my life in the fast lane

自分は「fast lane」で生きているのかな?と考えたんです。

どうせやらなきゃいけないなら、今の自分が出来ないことにチャレンジしたい

失敗してもまたスタート地点に戻るだけ。

足りないのは刺激と挑戦なんだ、と気づくまでに時間はかかりませんでした。

幸いなことに(?)、当時のオークランド大学はQS世界ランキングで50位以内に入るレベル。ここに決めた!と思ってみたものの、成績が出ていない自分には雲の上の存在でした。

そこで大学のファウンデーションコースへ通うことにしたんです。

メールをして手続きを済ませ、ビザも申請し2回目の渡航が決まりました。

ファウンデーションでも問題児っぽく扱われつつも楽しく過ごし、ギリギリの点数でオークランド大学の合格スコアを無事取得し、入学に必要なIELTS 6.5も期日ギリギリに結果を直接大学に送るという崖っぷちで無事クリアしました(入学後しばらく経つまでスコアを知らなかったし、原本はそのまま捨てられた)。

でも順風満帆に進まないのが人生です。

家族が病気になり再度帰国することにしたんです。

こういう曲もあるし、日本に帰るのには全然抵抗はなかった。



これが2回目の渡航。

この時のきっかけは刺激が欲しかったんだねー。

23歳で大学スタート

帰国後はバイトをしたり、病気だった家族の手伝いをしたり、ラップをしていた友達のイベントに行っては夜通し遊んだり、バスケをしたり、糖尿病だった犬にインスリンを打ったりとフラフラ過ごしていましたが、家のことも落ち着き次の年の3月から大学の勉強を始めることにしました。ただ、この時は大学は「遊べる場所」だと勘違いしていたんです。

案の定最初の学期にパスしたのはPOPMUSICのみ(今はanthropologyのコースになってる)。理学部なのにサイエンス要素はゼロでした。

その後色々ありつつも専攻を心理学と統計学にし、大学2年目中盤に入りやっと勉強する雰囲気になりました。

でも順風満帆に進まないのが人生だよね!

今度は最終テスト目前に父親が他界し、全部捨てて再度日本へ。

少しばかりの保険金だけを手にし、どうしようか考えました。

その時リピートしていたのがこの曲。たくさんお世話になりました。

結局ボロボロになったGPA(大学の成績ね)を抱えて大学へ戻ったんです。

GPAは大学通しての平均成績なので、1つでも落としていると一気に下がってしまうんです。この時点でのGPAは9段階で1にも満たなかった気がする。

大学に戻るきっかけとなったのは、まだやり遂げていないことがあったからかな。

手元に残ったお金を貯金してリスクを最小限にするのは本当に賢い生き方だと思う。でも、自分は専門家になって自由な服装で好きに仕事したかったんです(動機がよくわかんないけど)。そうするとこんなところで立ち止まっているわけにはいかない。

これが3回目の渡航のきっかけ。

その後専門家になるには大学院までいかなくちゃいけないことが発覚した。

GPAないのに。

その後

その後は貯金を全て授業料に使ったり、在学中にシングルペアレントになったり、仕事3つしながら大学院に通ったり、NCEAの統計学のカリキュラムを作るプロジェクトに参加させてもらったり、大学をキックアウトされそうになったり楽しく過ごしました。

留学する時、大学を決めた時、在学中の時、その他のバタバタの時、ビザで困った時の経験が誰かの役に立つと良いなぁと考えてPINを手伝ったりしています

何よりも、自分が得られなかったアドバイスを誰かにあげられたら素敵じゃない!?

ホント、大学は勉強するところなんて知らなかったもんね。誰も教えてくれなかったよ。

というわけで、みんなもニュージーランドに来たきっかけをシェアしていきましょー♪

Jandals Lifeはみんなのページだよー♪

ちなみに最近のリピートはこの曲達です。

ABOUT ME
PowerInNumbers
イミグレーションアドバイザーとデータサイエンティストの会社、Power In Numbers。 移住相談からビザ申請、相談にニュージーランドの今を反映する為のデータ分析以外にも、勉強を教えたりしているので、幅広い情報を書いています♪